学園祭の歴史をたどる|1923年の園遊会から文化的行事になるまで

学園祭の歴史をたどる|1923年の園遊会から文化的行事になるまで

毎年この時期になると当たり前に開かれる行事だが、いつ誰が始めたのかを説明できる学生は少ない。模擬店と発表とステージという今の形も、最初からそろっていたわけではない。大学の文書館や公式の記録をたどると、出発点は新入生を迎える園遊会であり、名称が定まるまでに10年かかり、開催されなかった年が何度も挟まっている。制度の側でも呼び名が一度変わっている。

記録でたどれる出発点は、1923年の園遊会だった

東京大学文書館の記録によれば、五月祭の起源は大正12年、つまり1923年5月5日に開かれた行事にある。当日は新入生歓迎会を兼ねた学友会大会の大園遊会という位置づけで、午前中は各学部を解放し、それまで他学部の学生には見られなかった機械や参考品を観覧させて知識の交換を図った。正午から学生大会が開かれ、午後3時から現在の御殿下グラウンドで園遊会が展開されている。

注目したいのは、学部の公開が初日から中心にあったという点である。今の学園祭でいえば研究室公開や展示にあたる部分が、娯楽より先に立っていた。模擬店が主役になるのは後の時代の変化であり、出発点では学内の知識を互いに見せ合う催しだったことになる。経緯は東京大学「蔵出し!文書館」に記載がある。

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名前が決まるまでに10年かかっている

始まった行事がすぐ今の呼び名になったわけではない。大園遊会はその後、大懇親会や全学解放へと改称を重ね、昭和8年に開かれた第10回から「五月祭」という言葉が大学新聞上で使われるようになった。10回を数えるまで名前が揺れていたという事実は、行事の性格そのものが固まっていなかったことを示している。

年 できごと
1923年(大正12)5月5日 東京大学で新入生歓迎会を兼ねた学友会大会の大園遊会が開かれる
1928年(昭和3) 学友会の解散にともない中止
1933年(昭和8)の第10回 大学新聞上で「五月祭」の呼称が使われる
1944・1945年(昭和19・20) 戦時下で2年続けて中止
1953年(昭和28) 京都大学で「京都大学秋季文化祭11月祭」の名称で初めて開催
1969年(昭和44) 東大紛争により五月祭が中止
1989年(平成元)告示 学習指導要領の学校行事に「学芸的行事」が置かれる
2008年(平成20)告示 同じ区分が「文化的行事」に変わり、文化祭が例として挙がる

京都大学の記録も似た道筋をたどる。毎年行われていた秋の文化祭が、昭和28年に「京都大学秋季文化祭11月祭」という名称で初めて開催された。公式の説明では、一般市民の祭典にしたいという理由からこの名称が採られ、翌年には正式名称になったとされる。学内の行事を街に開く意図が、名前のほうから先に表れた例である。

開かれなかった年のほうが、性格をよく語る

五月祭には4回の中止が記録されている。理由は昭和3年の学友会解散、昭和19年と20年の戦時中、そして昭和44年の東大紛争である。並べてみると、いずれも行事の運営主体か大学そのものが機能しなくなった年にあたる。天候や予算ではなく、学生の自治組織が消えたときに止まっている。

この並びは、学園祭が誰のものかを逆から教えてくれる。大学が主催する式典であれば、学友会の解散で止まる理由はない。企画と運営を担う学生の組織が前提にあり、その組織が成り立たない年には開催できなかったということになる。公認か非公認かといった団体の立場の違いはサークルの種類を4つの軸で仕分けた記事で整理している。前夜祭の回数が本祭より1回少ない京都大学の例も、第1回の来場者が少なかったことを受けて応援団が翌年に始めた経緯によるもので、学生側の工夫から生まれている。

運営の体制が行事の存否を決めるという構図は現在も変わらない。実行委員会の引き継ぎが途切れた年に規模が縮むのは珍しくない。団体としての形を保つ考え方はサークル運営のコツを扱った記事でも触れている。詳しい沿革は京都大学「11月祭と前夜祭」に掲載されている。

小中高の文化祭は、制度の中で呼び名が変わった

大学の学園祭と違い、学校の文化祭は学習指導要領に位置づけられている。平成元年3月に告示された中学校学習指導要領では、学校行事の区分が儀式的行事、学芸的行事、健康安全・体育的行事、旅行・集団宿泊的行事、勤労生産・奉仕的行事の5つで、文化祭にあたる区分は「学芸的行事」と呼ばれていた。平成10年告示でもこの名称が続いている。

呼び名が変わったのは平成20年告示の中学校学習指導要領である。第5章の特別活動で区分が「文化的行事」に改められた。平成29年告示の解説では、文化的行事に日頃の学習や活動の成果を発表し合う行事と外部の作品や催し物を鑑賞する行事があるとされ、前者の例として文化祭、学習発表会、音楽会、作品発表会が挙げられている。

同じ解説には、事前の準備や事後の片付けに時間を要する行事があるため、生徒に過重な負担が掛からないよう配慮するという留意点も置かれている。準備で疲れ切る問題は現場の感覚だけでなく、制度の文書にも書き込まれている。区分の原文は文部科学省「中学校学習指導要領 第5章 特別活動」と平成元年版の第4章で読み比べられる。

同じ時期の高等学校学習指導要領も事情は同じで、平成元年3月告示の第3章では特別活動がホームルーム活動、生徒会活動、クラブ活動、学校行事の4つで構成され、学校行事の区分に「学芸的行事」が置かれていた。小中高をまたいで名称が一斉に置き換わったことになる。学芸という言葉が外れた背景には、発表の中身が教科の成果に限られなくなった事情があると読める。当時の条文は高等学校学習指導要領(平成元年3月)第3章で確認できる。

感染症の時期に、開催方法そのものが問い直された

直近の大きな断絶は2020年前後に起きた。文部科学省は学校設置者向けのQ&Aで、感染症対策を講じつつ学校行事を実施するための工夫を行事ごとに示している。文化的行事については、小グループやパートごとの練習を基本として全員で集まる機会はリハーサルのみとする、学年ごとの発表を映像や音声にとり校内放送で流したりオンラインで配信したりする、という例が挙げられた。

この時期に試された方法のうち、配信や記録映像は中止の代替として始まったものである。来場できない家族が見られる、翌年の担当者が前年の様子を確認できるという利点は、制約が外れた後も残った。1923年の学部公開から数えて、見せる相手の範囲が広がり続けてきた流れの延長線上にあると見ることもできる。

企画の形を決める段階で過去の記録が残っているかどうかは、準備の負担に直結する。進め方の型はイベント企画書の書き方を扱った記事が参考になる。工夫の例は文部科学省のQ&Aに残されている。地域と学生の催しをつなぐ動きにはFLASPOのような場もある。

よくある疑問

日本で最初の学園祭はどこの大学なのか。公式の記録で始まりをたどれる例として東京大学の1923年の園遊会があるが、どこが最初かを断定できる資料は見当たらない。各大学の文書館が公開している沿革を個別に確認するほうが確実である。

学園祭と文化祭は違うものなのか。学校の文化祭は学習指導要領の文化的行事に位置づけられた教育活動で、大学の学園祭には同じ根拠がない。主催が学生側にあるかどうかという点で性格が分かれる。

なぜ秋に開く大学が多いのか。11月祭のように秋の文化祭として定着した例と、五月祭のように新入生歓迎から始まった例の両方がある。開催時期は行事の出発点によって分かれている。

模擬店はいつから中心になったのか。1923年の記録では学部の公開と園遊会が中心で、模擬店の記載はない。いつ主役が移ったかを示す公的な資料は確認できていない。

中止になった年の記録はどこで読めるか。大学の文書館や広報が沿革として公開している。東京大学の場合は4回の中止とその理由が文書館の記事に整理されている。

準備の負担が重いのは昔からなのか。少なくとも制度の文書では平成の時点から配慮すべき点として書かれている。負担そのものが新しい問題というわけではない。


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