入国審査で止まるのは、語彙が足りないからではない
審査官の口が動いて、聞き取れたのは「パーパス」だけ。手元の紙に目を落として、顔を上げたときには後ろの列が詰まっている。旅先の英語でつまずく場面は、たいていこの形をしている。知らない単語が出たのではなく、何を何の順で言えばいいのかが決まっていなかった、というだけのことが多い。
そういう場面に立つ人は、いま急速に増えている。日本政府観光局がまとめた年別の出国日本人数によると、2025年に日本から出国した日本人は14,731,615人だった。前年の13,007,282人から13.3%増えている。ただし2019年の20,080,669人には届いておらず、感染症の流行前と比べればまだ7割ほどの水準にとどまる。
つまり、いまの出国者のかなりの割合が「久しぶり」か「初めて」である。数年のブランクがあると、以前は反射で出ていた言い回しが出てこない。語学力が落ちたというより、場面と型の結びつきが外れている。先に結論を書くと、旅行に必要な英語の範囲は思っているより狭く、そして範囲が狭いぶん、あらかじめ型で持っておくことの効果が大きい。
この記事では、国が測っている英語力の水準を物差しに使いながら、旅先で実際に使う英語がどこまでかを区切っていく。FLASPOでは学びと体験をつなぐ情報を扱っているが、ここでは机の上の学習ではなく、空港から宿までの導線に絞る。
国が引いている「できる」の線は、どのあたりにあるか
感覚で「英語が苦手」と言う前に、公的な物差しを一度あててみたい。文部科学省は毎年、公立の中学校と高等学校を対象に英語力の到達状況を調べている。令和7年度の英語教育実施状況調査は、令和8年2月1日を基準日として、中学校9,101校と高等学校3,230校から回答を得ている。
その概要によると、中学校卒業段階でCEFRのA1レベル相当以上に届いた生徒は54.6%だった。高等学校卒業段階でA2レベル相当以上は52.4%、B1レベル相当以上は23.9%である。国は第4期教育振興基本計画で、A1相当以上とA2相当以上をそれぞれ6割以上、高校生のB1相当以上を3割以上に引き上げる目標を置いている。
| 区分 | 平成25年度 | 令和5年度 | 令和6年度 | 令和7年度 | 国の目標 |
|---|---|---|---|---|---|
| 中学校卒業段階 A1相当以上 | 32.2% | 50.0% | 52.4% | 54.6% | 6割以上 |
| 高校卒業段階 A2相当以上 | 31.0% | 50.6% | 51.6% | 52.4% | 6割以上 |
| 高校卒業段階 B1相当以上 | ― | 21.2% | 21.2% | 23.9% | 3割以上 |
A1は、ごく基本的な表現を使って自分のことや身の回りのことをやりとりできる段階を指す。英検でいえば3級あたりが目安になる。注目したいのは、この水準に届いているのが中学卒業時点で半数強だという点と、そこから高校3年間を足してもA2相当が半数という点である。日本で学校教育を終えた人の多くは、A1からA2の帯にいる。
そして旅行で要求される英語は、おおむねその帯の内側に収まる。チェックインも注文も道案内も、短い定型のやりとりで成立する設計になっているからだ。手も足も出ないと感じるのは、水準が足りないのではなく、帯の中にある力を場面に割り当てていないことが多い。
旅先のやりとりは、六つの場面に畳める
出発から帰国までを書き出していくと、英語を口に出す場面は驚くほど限られている。入国審査、移動、宿、食事、買い物、そして困ったとき。この六つを押さえると、だいたいの行程が埋まる。
入国審査で聞かれる内容は国を問わずほぼ同じで、滞在目的、滞在日数、宿泊先、帰りの便の有無に集約される。答えは単語でよい。観光なら目的を一語、日数を数字、宿泊先はホテル名を見せる。文を作ろうとして詰まるより、紙かスマートフォンの画面に予約内容を出すほうが速い。
移動と宿は、こちらから言う側に回る場面である。行き先を告げる、人数と泊数を言う、時刻を確認する。ここで効くのは丁寧な文ではなく、数字と固有名詞をはっきり発音することだ。時刻は24時間制で言うより、数字を区切ってゆっくり繰り返すほうが通る。
食事と買い物は、指差しと数詞でほぼ足りる。アレルギーや宗教上の制限がある場合だけは例外で、該当する食材名を現地語で書いた紙を用意しておく価値がある。口頭で伝えて誤解されると結果が重いからで、ここは英語力の問題ではなく準備の問題になる。
残る「困ったとき」は性質が違う。相手に何かを頼む場面であり、こちらの英語が崩れやすい場面でもある。だからこそ、ここだけは英語の外側に逃げ道を用意しておきたい。
通じなかったときに効くのは、たいてい英語ではない
盗難に遭った、体調を崩した、便が飛ばない。こうした場面で求められるのは流暢さではなく、誰に連絡するかを知っていることである。外務省の海外安全ホームページは、渡航先ごとの安全情報と在外公館の連絡先をまとめている。日本語で読めて、日本語で相談できる窓口が先にあると分かっているだけで、現地での判断が変わる。
同省の危険情報は4段階で示される。レベル1は「十分注意してください。」、レベル2は「不要不急の渡航は止めてください。」、レベル3は「渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」、レベル4は「退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」である。感染症危険情報も同じ4段階の区分で出される。行き先を決めた時点で一度、出発前にもう一度見ておきたい。
健康面では、厚生労働省検疫所が予防接種についての情報を公開している。渡航先と滞在形態によって推奨される内容が変わるため、接種が必要なら日程を逆算する必要がある。英語で症状を説明できるかを心配するより、そもそも医療機関に行かずに済む確率を上げるほうが合理的である。
言葉そのものについては、翻訳アプリを事前に入れ、使う言語のデータを端末に落としておく。通信が使えない状況でも動くようにしておくのが要点で、この一手間が現地での安心感をかなり変える。旅券や保険証書の控えも含めた全体の段取りは海外旅行の準備の回で扱っている。
出発前の三週間で、やることは絞れる
文法書を一冊終える時間はない、という前提で組み立てたほうがうまくいく。残り三週間なら、週ごとに役割を分けると迷いが減る。
最初の週は、音に耳を慣らす時間にあてる。文字を目で追うのではなく、空港や駅のアナウンスを聞き流す。知っている単語が音の塊の中から浮かび上がってくる感覚が戻れば、それで十分な成果である。
次の週は、前の章で挙げた六つの場面について、自分が言う側のせりふだけを声に出して用意する。相手の返しは予測しない。相手は想定どおりには答えないので、覚えるだけ無駄になる。自分の側の発話が自動化されていれば、相手の返答は聞き取りに集中できる。
最後の週は、紙とアプリの準備に使う。予約確認書を印刷し、アレルギーの表示を用意し、翻訳アプリのオフラインデータを入れる。英語の勉強ではないが、現地での発話量をいちばん減らしてくれるのはこの作業だ。
帰国後に学習を続けたくなったら、そのときは旅行用ではない組み立てに切り替えればよい。基礎からの順序は英語学習の始め方に、留学を視野に入れる場合の準備は英語と海外留学の関係にまとめてある。旅先で一度でも通じた経験があると、戻ってからの学習の持ち方が変わる。
よくある質問
英語がまったく話せなくても海外旅行はできますか。できる。ただし行き先と形態の選び方が変わる。日本語対応のある都市や、添乗員が同行する行程を選べば、発話が必要な場面はさらに減る。個人手配で地方部に入る場合は、言葉より現地の交通と医療の情報を厚めに集めておきたい。
どのくらいの英語力があれば安心ですか。文部科学省の調査が使うCEFRでいえば、A1相当で最低限の受け答えが成り立ち、A2相当あれば予定変更の相談までこなせる場面が増える。令和7年度の調査で高校卒業段階のA2相当以上が52.4%という水準なので、多くの人は「安心」の手前にいる。足りない分は準備で埋める、と割り切るほうが現実的である。
発音が通じないときはどうすればよいですか。言い直すより、書くか見せるほうが速い。地名や料理名は綴りを見せれば一度で解決することが多い。数字は特に誤解が生じやすいので、指で示すか画面に打ち込んで確認する習慣をつけておくとよい。
翻訳アプリだけで乗り切れますか。日常のやりとりはかなりの部分が代替できる。ただし通信が途切れる場所、電池が切れた状態、相手が急いでいる場面では機能しない。アプリは補助として置き、入国審査や緊急時の最初の一言だけは自分の口から出せるようにしておくと、詰まる確率が下がる。
子ども連れの場合に用意しておくものはありますか。食物アレルギーと常用薬の情報を、英語と現地語の両方で紙に書いて持つ。預け入れ荷物に入れず、手荷物に入れる。加えて、はぐれた場合に備えて宿の名称と連絡先を書いたカードを本人に持たせておくと、言葉が通じない環境でも周囲の助けが届きやすくなる。
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