若者が「自分だけが知る“推し地域”」の魅力を自由に綴ることを通じて、地域と若者・企業がつながる機会を生み出すエッセイコンテストを、2025年7-8月にFLASPOと地域とつながるプラットフォーム「SMOUT」 が共同開催!
全国各地から合計70以上の”推し地域”をテーマとした作品が集まりました!
そこで、第4弾の今回も、惜しくも受賞しなかった素晴らしい作品たちをご紹介します!
読むと、地域に関わりたくなる、自分も地域の魅力を言葉にしたくなる、心に残る作品ばかりです!
※コンテスト概要はこちら👇
<エッセイ紹介>
(16)「帰省のたび「最近どうですか?」と問われるパワースポット」(ペンネーム:遠水イッカン)
「脳内ドブ掃除コース 6000円」
金沢に帰省したとき、ばあちゃんと妹たちと入ったカフェ「百薬キッチン」。長町武家屋敷近くにある薬膳料理の店で、お洒落なランチメニューの中にひときわ異彩を放つページがあった。
“頭の中の気の詰まりを流すことで本来の自分を取り戻す調整をします”
……なんだそれ。気になりすぎて、ランチを食べてる間も頭から離れない。結局、食べ終わったタイミングで「これやってくから先帰ってて〜」と家族に告げ、追加注文をしてしまった。
「最近どうですか?」部屋に通されるなり、突拍子もない問いかけが飛んできた。よくわからなすぎて、とりあえず思いついたままに吐き出してみる。
「どこが悪いってわけじゃないんですが、なんとなく調子が悪くて。どの予定も不完全燃焼に終わるんですよね…」
仕事や人間関係を“こなす”ように過ごしてる近況を伝えると、施術を担当してくれたメミさんは「それはきっと、人生のフェーズをあげるタイミングだね」と言った。
どうやら今の自分は“退屈”を感じているらしい。メミさん曰く、人生では「行動」と「感覚」がリンクしていて、作業のような行動は退屈を呼び寄せる。すると70%の満足度ぐらいの出来事や人がまた集まり、続いてしまうのだという。
「じゃあ逆に、ワクワクするのはいつ?」と聞かれて浮かんだのは、親友との何気ない会話。
ふいに「お前ってこういうとこあるよな」と言われ、思わぬ自分を発見する瞬間だ。むず痒さと同時に、じんわりあたたかくなる感じ。
「それが今のあなたの120%。これからはその感覚を基準にしてみて」
何か行動するときに「あの感覚になれるかな」と意識してやってみること。そんな行動が増えていくと、やがて120%の自分が“普通”になり、フェーズが上がっていく。そのためにまずは自分の心の声を大事にね、とメミさんは続けた。
あれから少しずつ、周囲に合わせて振る舞う自分から、心に正直に生きる自分に変わってきた気がする。現在そのカフェは閉じ、同じ場所で「百薬庵」という整体屋になっている。先生はもちろんメミさん。6年前のあの日から、ボクは帰省のたびに顔を出すようになった。
変わらず飛んでくる「最近どうですか?」に答えることで、人生のコマを一つ踏み締めて進む感覚をもらえる。そして「これからのあなたの人生が楽しみだわ」と送り出される瞬間が好きだ。背筋が伸び、帰り道の武家屋敷の風景がちょっとだけキラキラして見えて頬が緩む。
両親をはじめ地元の人にはそこまで知られていない隠れたパワースポット、百薬庵。そこはボクにとって、金沢で帰るもう一つの家になっている。推し地域= 金沢、長町武家屋敷の裏っ側
「帰省のたび「最近どうですか?」と問われるパワースポット」
(17)「場所や見た目が変わっても」(ペンネーム:井村詩織)
大学の卒業論文で「寿司」をテーマにしたほど、無類の魚好きの私。
新聞記者として働いていた際、「魚が美味しい場所」という話を聞き、最初の赴任地は輪島市を希望した。
赴任した日すぐ、日本三大朝市のひとつとして有名な「輪島朝市」へ。
「買うてくだー(買ってください)」という元気なおばちゃんたちの声と新鮮な魚、磯の香りのする干物、美しい輪島塗の箸…。すぐに朝市の虜になったのを覚えている。タラやフグ、香箱ガニなど、輪島でとれる美味しい海鮮は挙げきれないが、特に印象に残っているのは、海女が素潜りでとってくる「アワビ」だ。
朝市で加工海産物を販売しているお店で、「初とれ、味見してみる?」と聞かれ、何とはなしに立ち寄って食べた。
アワビのひとかけがくちびるに触れた瞬間、あまりの衝撃に一瞬視界が真っ白になった。
なんと、口に入れる前、くちびるに当たっただけで「美味しい」と感じたのだ。
――記者になって初めてもらったボーナスは、すべて朝市の魚に使った。
太陽の暑さが厳しい日も、雪が降る日も、ほぼ毎日朝市に通った。私は、いつも明るく迎えてくれるおばちゃんたちの笑顔と、ここでしか味わえない魚の味にすっかり夢中になっていた。
しかし、赴任からしばらく経って結婚・妊娠したのをきっかけに、輪島から別の場所へ転勤することになった。
朝市のおばちゃんたちとは「子どもを連れてまた魚食べに来るからね。待っとってね」と約束をして別れた。令和6年1月1日16時10分。
無事に出産した子どもを抱いて、富山の実家で、のんびりお菓子を食べていたときだった。
床に叩きつけられるような激しい横揺れに襲われ、あわてて避難した。そして、避難先のテレビで見たのは、炎に包まれた思い出の地。
「お願いだから、燃えないで。お願いだから、みんな生きていて」
心の中で唱えるしかできなかった。あれから約2年。やっと訪れることができた輪島朝市は、かつての面影を失っていた。
風になびくオレンジ色のテント、海鮮を狙って旋回していたトビ、魚と磯の香り。心に残っていた情景はもうそこにはなく、ただ緑が広がっていた。
――しかし、「輪島朝市」は別の場所に残っていた。
「出張輪島朝市」として、地元のスーパーマーケットやおまつりに出店していたのだ。
「久しぶり!元気にしとったけ?子どもちゃんのぶんも、魚買うてってね!」
やっと会えた朝市のおばちゃんたちの声を聞いたら、なんだか涙が出てきた。
場所や見た目が変わっても、ここが私の大好きな場所。大切なものが残っていたから。被災された皆様にお見舞い申し上げますとともに、1日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
推し地域=石川県輪島市
「場所や見た目が変わっても」
(18)「偶然がくれた、人生の原点:バリ島」(ペンネーム:アル)
大学3年生の夏、友人と訪れたバリ島で思いがけない出来事がありました。本来ならウブドに宿泊する予定でしたが、システムエラーで予約が取れておらず、その日は野宿を覚悟しなければなりませんでした。そんなとき、偶然にも利用していた旅行会社のオーナーさんが声をかけてくれ、シデメンにある彼のヴィラに宿泊させてもらえることになったのです。
シデメンは観光地から離れた小さな村でした。コンビニや街灯はなく、夜遅くなるとレストランも閉まってしまいます。けれど近所の人たちが食事を分けてくださったり、夜にはお酒を飲みながらカラオケを楽しんだりと、そこにはどこか懐かしく、心温まる生活がありました。観光では触れることのできない、バリ島の素顔に出会えた瞬間でした。
朝靄に包まれた棚田の緑、その奥に凛と立つアグン山の姿はまるで絵画のようでした。観光客は少なく、朝に聞こえてくるのは鶏の声と子どもたちの笑い声。都会の喧騒から離れた静けさに、心がすっと軽くなるのを感じました。道ですれ違う人々は皆「Selamat Pagi!(おはよう)」と笑顔で声をかけてくれます。小さなワルンで飲んだ甘いコーヒーの味や、道端で出会ったおばあさんに教わったバリ語の挨拶は、今でも鮮明に覚えています。観光ガイドには載っていない、けれど確かにそこにある「暮らし」に触れることができたのです。
一方で、村に住む人々の生活は決して豊かではありませんでした。1日100円で生活しなければならない家庭や、親が海外で不法労働に従事し、祖父母が子どもを育てている現実に直面しました。そこには、貧困と背中合わせの日常が確かに存在していたのです。さらに、学校に通えずインドネシア語の読み書きができない大人も少なくありませんでした。
私はもっと現地の人々と交流したいと強く思い、人生で初めてインドネシア語を学び始めました。現在はインドネシアにある大学に通いインドネシア語を学んでいます。その後、恩返しの気持ちから再びシデメンを訪れ、村にある小さな小学校で日本語を教えるボランティアをしました。授業には想像以上に多くの子どもたちが集まり、ある日一人の子がスマホで翻訳した画面を見せてくれました。「日本語の授業はいくらで受けれますか?」その一文を見たとき、胸が熱くなり涙が止まりませんでした。
子どもたちは決して裕福ではありません。親の多くは出稼ぎに出ていたり、あるいは死別していたりと様々な事情を抱えています。それでも村全体が一つの家族のように子どもたちを見守り、孤立させない環境がありました。だからこそ、バリ島にはホームレスがいないのだと知りました。授業が終わると、子どもたちは色とりどりの花や手作りの工作を私にくれます。少ないお金しか持っていないはずなのに、お菓子を買ってプレゼントしてくれることもありました。その優しさに触れるたび、私は逆に大切なものを与えてもらっているのだと感じました。
華やかな観光地の影に隠れがちなシデメンですが、ここにはバリ島の素朴な日常と、人の温かさが息づいています。偶然訪れたこの村は、私にとって単なる旅行先ではなく、人生を変えるきっかけをくれた原点の場所になりました。誰かに「本当のバリ島を知りたい」と聞かれたら、私は迷わずシデメンをすすめます。
推し地域=バリ島 シデメン
「シデメン村の子どもたち」
(19) 「生まれ変わり続けよう。人も、町も。」(ペンネーム:田園都市派フライドポテト)
大学三年生七月。
逃げ出したくて、旅に出ることにした。
学業とアルバイトと、そして就職と。
他者と関わりながら、大切な将来の決断をする時期がやってきたのだ。
何かありのままを感じるだけでいい。
少しでもそんな時間が欲しかった。
旅先は近場で、自分の住んでいる県の上の香川県へ行くことに。すぐさま民宿を予約した。
所在地を確認すると「仏生山(ぶっしょうざん)町」という地名だった。
『仏』が
『生』まれた
『山』があるのか…!?この地で仏様が本当に生まれたのか?
地名の漢字にも心をくすぶられ、汽車の切符を片手に真実を確かめることにした。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして仏生山駅に到着。屋外広告や寺社仏閣で地名の語源を探ってみる。
どうやら、仏様の遺骨がこの町の寺で見つかったのが由来だそうだ。漠然とだが語源を知ったところで、宿に行きチェックイン。
その後町散策へ。和菓子や畳の老舗・新しくオープンしたカフェやレストラン・シャッター…。
それぞれ異なる歴史を歩んできた店舗で街ができていた。
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地域において【新陳代謝】は大切なことだと思う。現在、日本各地で過疎化や高齢化が進み、都市部に人口が集中している。
この現状が深刻になると、年齢や跡継ぎ・需要などでその地域で紡がれてきた文化が終わる。
組織が、終わりを迎えざるを得ない。新しい文化が始まることも、ない。
自分の生まれた町、また都市部以外の地域に目を向け触れることで何かが次に繋がると思う。
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仏生山町は、まさに歴史の新陳代謝が起こっている町だと思う。個人営業していたであろう店のシャッターが数件並んでいた。
それと同様に、数年前にオープンしたであろう飲食店がいくつか見られた。老舗も並び、仏生山温泉は全ての年齢層が楽しめる空間にデザインされていた。
「どんな人も受け入れるよ」
小さな町に、そう言ってもらえている気がした。
終止心が落ち着いていた。「仏」の漢字に引っ張られたのもあるのかもしれない。
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地域の内外に関わらず、全ての人を町に受け入れる。今の日本の現状で、地域が持つべき大切な認識であると思う。
人も町も生まれ変わっていく仏生山が、これを教えてくれた。ありがとう。
推し地域=香川県高松市仏生山 (ぶっしょうざん) 町
「長い歴史が終わり、そして未来へ始まる早朝の街並み。」
(20) 「蜃気づく」(ペンネーム:TAK)
蜃気楼とは何かご存知だろうか。曲あるいは小説で出てくることも多いこの単語だが、実は、遠方の景色が光の屈折によって伸びたり反転したりして、普段とは異なる様相を呈する自然現象を指している。また、ほとんどは海で見られる。
幼少期から「天気の子」であった私は、中学に上がってすぐ蜃気楼の虜になった。本やSNSで調べてみると、どうやら結構珍しい現象のようで、日本では数ヵ所でしか観測されていないらしく、さらに季節も春限定である。刻一刻と変化し、数分で消えてしまうことも少なくないそうだ。
当時愛知県に住んでいた私は、近場で蜃気楼が観察できる場所を探してみた。すると、Twitterで観測報告をされている三重県在住の方を見つけた。連絡を取り、5月下旬にお会いすることになった。
久しぶりの海は想像以上に大きい。春霞の中、車の中の私は期待と好奇心で胸を踊らせていた。希望と不安は蜃気楼のように現れては消え、波のように寄せては返したことを鮮明に記憶している。
津市の海岸に到着すると、双眼鏡とカメラを携えた優しそうな男性が待っていた。彼曰く、「今日は見えそうだ」と。ところが、数時間待っても霞みは増すばかりで対岸の景色が見えない。空が赤く染まり、日暈が鮮明になっていく中、撤収となった。自然への無力と悔しさを強く感じたのはこれが初めてである。
しんき一転、私は執着心の元で愛知の知多半島側から何度も出向くことに決めた。電車を乗り継ぎ、一人で海を目指す。コンビナートが窓を駆け抜け、その隙間から伊勢湾が覗く。段々と建物が減っていき、美しい緑が視界を占めていく。
蜃気楼観察のうち、はじめの数回は全く姿を見せてはくれなかった。最初の出会いは出向いて5回目くらいのことだったと思う。テトラポッドに腰掛け毎度のように対岸を眺めていると、突然向こうの家々が上方に伸びはじめた。想像以上に小規模であったが、普段は見えないものが見えるようになるという示唆的現象に私の心は釘付けであった。
それ以降は何度も観察に成功した。人間たるもの、一度上手くいけば一気に慣れる。あるとき、いつものテトラポッドで蜃気楼を見ていると親子連れが側を通りかかったので、興奮片手に彼らへ蜃気楼が見えていることを伝えると、そんな話は聞いたこともないと驚いていた。実際、ネットで検索してもほぼヒットしないので仕方がないことではあるのだが、中学生ながらどこか寂しさを覚えた。
江戸時代、伊勢湾は蜃気楼の名所だったらしい。数多の浮世絵に蜃気楼の情景が描かれ、蜃気楼に纏わる骨董品も多く残っているそうだ。それが今や夢の跡であるとは何とももどかしく悔しい事実である。
伊勢湾での経験は私にいくつかの知見を与えてくれた。まず、普段見えないものが見えているときでも、意識を向けなければ全く気づけないということである。それは蜃気楼自体も伊勢湾でのそれも然りで、人生全体を通しても言えるだろう。見えるときに見逃すのは頗る勿体ないと思う。
次に、自然は人を通じて地域を活性化する力を持つということだ。富山の魚津市は蜃気楼で有名で、マスコットキャラクターも蜃気楼である。Twitterで私が先駆者と知り合ったあの時と同様に、今ではSNSと自然が持つ力とで伊勢の蜃気楼を復興できるはずだ。今でもTwitterの方とは繋がりがある。
伊勢では、常滑焼をはじめとして多くの魅力を味わえた。それを他の方にも知ってほしいし、蜃気楼を通した体験は今の私のアイデンティティの一部である。つかみどころのない蜃気楼は、周囲をよく観察して気づくこと、そして自然との対話欲求の源泉となっている。
推し地域= 三重県伊勢湾
「春霞の中に、普段は見えないものがあるはずだ。」
ぜひあなたも自分の”推し”地域を想い、言葉にしてみるのはいかがでしょうか!
次回第5弾もお楽しみに!
第1弾(コンテスト受賞作品5選)はこちらから👇









